いまある「当たり前」|『最期の、ありがとう。』(冨安徳久著)をオススメする理由 | ワンダーノート

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いまある「当たり前」|『最期の、ありがとう。』(冨安徳久著)をオススメする理由

最近ふと知り合いの投稿で上がっていた一本の動画。

 

色が見えることが、こんなにもすごいことなんだ!

心の底から願うほどに求めている物を自分は持つことができているんだ!

見ながらそんな思いが止まらなくなります。

 

特に僕は、「目」に関する障がいになぜか思い入れがあります。
裸眼ですし、色もちゃんと見えます(ちょっと色の識別が弱いっぽいですが)

 

目が見えない世界を考えるととても怖い。
もしかしたら前世で経験をしているのかなと勝手に思っています。

 

ちょっと話はずれましたが、いま当たり前に持っているもの、できていることがどれだけ価値があることなのか。そのことに気づくことができました。

 

 

このブログはベトナムで書いていますが、
ホーチミンはとにかく路面状態が悪い。段差だらけで道がガタガタです。
足が不自由だと歩くことだけでも大変でしょう。
日本だときれいな道路・歩道が当たり前(ユニバーサルデザインも増えていますよね)。

 

きっと地方にいけば、まだまだ舗装されていない場所も多いのかも。
こういう機会がないと確認できないほど鈍感になっている僕たちです。

 

 

『最期の、ありがとう。』のはじめにの部分にこんな富安社長の思いが語られています。

 

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人は生まれたからには誰でも死ぬ、と理屈ではわかっていても、死に接することがなければ実感は湧かないものです。

 

今朝「行ってきまーす」と出かけていった家族が、必ず生きて帰ってくるものと思っているけれど、葬儀の仕事をしていると、事故や事件、災害などにあって生きては帰ってこない方のお世話をすることも珍しいことではありません。

 

そんなとき、人間は死をそのまま真正面から受け入れる他に道はないのだと、痛切に感じられるのです。

 

明日という日が、当たり前に来るとは限らない。
明日という日が、来ることはキセキなのです。

 

『当たり前』⇄『ありがとう(感謝の心)』

 

そう、『当たり前』の反対語は『ありがとう』なのだと僕は考えます。
当たり前と思っていると、その瞬間、その時間、その日、という二度と来ない大切なことに対して、感謝の言葉や心は生まれないのです。

 

死が身近にあってそれが自然なことと思えるなら、生きている時間が有限であるということもわかってきます。
その結果、当たり前じゃない多くのことを知り、それに気づき、すべてに感謝する心や人への思いやりも出てきます。自分の気持ちに忠実になり、日々をおろそかにできなくなるなど大きな変化が起きてくるでしょう。

 

 

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僕は引用した最後の文章が大好きです。

幸せになるための真理が、この優しい文章の中に感じることができるからです。

 

たくさんの「死」を「大切な人との別れ」をお見送りされてきたからこそ
伝わってくる言葉の重みがあります。

 

 

 

またベトナムでの話になりますが、
レストランで食べきれなかった料理を、スタッフの女性が包んでくれました。

ただ、本当にお腹いっぱいだし、泊まっているアパートメントには
レンジや調理器具もないしなと思っていたところ、

アパートの共有リビングに、Airbnbのホストファミリーのおばちゃんがいました。
いつも夕方頃に料理しているのを見ていたので、明日のご飯のおかずにしてくださいとプレゼント。

 

おばちゃんは英語も話せないし、僕らもベトナム語は話せない。
ジェスチャーでなんとか渡すことができました(笑)

そしたら満面の笑顔で受け取ってくれたおばちゃん。
喜んでくれたことで、僕らも笑顔に。

笑顔でいられるってことだけで気持ちも通じ合えるし
コミュニケーションもとれる。これも当たり前じゃないよなと思います。

 

当たり前じゃなく、ありがとう。
今日も1日、がんばります。

 

 

最期の、ありがとう。新・ぼくが葬儀屋さんになった理由(わけ)